緑ヶ丘病院近くの丘の埋葬地。この地を含む興南一帯で3300名余が亡くなったが、うち1600名余がこの地に埋葬され、残りの多くは三角山のふもとに埋葬されたと思われる(三角山の方に埋葬された数の方が多いとする資料もある)。
以前から、「家を建てるときに遺骨が出てきた」という話はあったが、埋葬地として正式に確認されたのは、2年前の2011年。チョ先生ら朝鮮側の調査チームが現地の人の証言を元にトレンチを入れた際、遺骨が出てきた。2012年8月に墓参団が訪れた際には2か所を掘ったところ、どちらからも遺骨が出たという。
元々は日本軍の収容施設だったが、軍人は1945年9月下旬から1か月ほどの間にシベリアに送られ、代わりに、満州や咸境北道方面から避難してきた民間人がこの地に滞在することになった。日本窒素の子会社が東海岸沿いに多くあったため、窒素関連会社で働いていた人の家族がこの地を頼って逃げてきたという。従って、亡くなったのはほとんどが民間人、特に、女性と子供が多かった。
【現地調査】
案内された場所は、元緑ヶ丘病院すぐ横の小高い丘。同病院の建物は現在、興徳総合診療所として使用されている。現地の関係者に「この建物の昔の名前は何か」と追求した結果、「緑ヶ丘」という名前が出てきて、確認が取れたという。水野教授ら調査団は、丘から見える景色と昔の地図を照らし合わせ、「かつての緑ヶ丘国民学校、緑ヶ丘病院、埋葬地の位置関係などが地図と一致している。この場所が埋葬地で間違いない」と話した。
なお、現場調査中、日本からのマスコミ関係者らが、2か所で、畑表面にむき出しになっている遺骨の一部を発見。同行していた現地住民に、小さな穴を掘って埋葬してもらう事態となった。すべての遺骨を一箇所にまとめきれず、今も散在している現実が明らかになった瞬間だった。
水野教授:興南には、まだ複数墓地があるとされているが、はっきりとした場所が分からない。今後調査を行いたい。
(記者質問:この場所に新たな開発の計画はあるのか?)
チョ先生:この場所は、私の知る限りそのような開発の計画は無く、三合里や竜山ほどは切羽詰っていない。
(記者質問:あちこちに遺骨が散在しているようだが、今後どう対応するつもりか?)
チョ先生:それは日本が考え、対処すべきことではないか?これらはあくまでも日本人の遺骨なのだから、日本に持って帰ることが出来ないなら、どこか1か所にまとめて慰霊塔を建てるなど、何らかの対応をしてほしい。畑を耕すたびに骨が出てくるというのは、地元の人にとっても気持ちのいいものではない。
水野教授:一番優先されるべきはご遺族の意向だが、ご遺族もお年を召されており、数も減ってきている。ご遺族の力だけでどこかに移送してまとめるという力はないだろう。従って、日本政府なり日本の社会がこの問題に関心を持ち、どうすべきかを真剣に考えるべきだと思う。
緑ヶ丘跡地(興徳) 埋葬地



↓三角山


埋葬地から元緑ヶ丘病院建物を望む(正面横長2階建ての白い建物)
写真上。発見された遺骨を埋葬した盛土から三角山を望む。
写真上。現場調査中に偶然発見された遺骨を手に、遺骨が散在している現状を解説をするチョ先生(左)。
写真上。病院から埋葬地に行く途中の道には、かつての日本家屋が、今もそのまま立ち並んでいる。
写真上。埋葬地一帯。
