北遺族墓参団に参加して―H.K.
私は5歳まで清津で育ちました。父が応召されて、母は昭和20年8月13日、兄2人、姉、私、妹の5人の子供を連れて清津を脱出、東海岸側を南下、元山に辿りつきましたが、多くの日本人はロシア軍に足止めされ避難生活を送ることになりました。そして20年12月に母が病死、翌21年1月に妹が亡くなりました。
身をもって当時を見てきた兄たち(当時中1、小6)は、いつの日か墓参をしたいというのが長年の願いでした。諦めていた墓参が今回できる事になり、病身の兄たちに代わって私が参加させていただきましたこと、感謝申し上げます。
姪が同行してくれました。清津は、山が海岸の街をとりまく静かな風景に見受けられました。松の山の連なり、山の上から海を見て遠い昔を感じました。双燕山の火葬場跡地で宮本和尚様にお経をあげていただきました。
生まれ育った我が家は双燕山の向こう側とのこと。何か名残を見たい思いにドキドキしましたが見ることはできず、私はその方角に向かって手を合わせてきました。もっと居たい。そんな気持ちでした。
元山で亡くなった母と妹の埋葬地は、兄の記憶で「工業学校を目印に広石洞の山を西南の方向に行った青山里という所」。地図に印をつけて墓地を探していただきました。北朝鮮の方の説明では、「青山里という地名は無く、三峰洞の共同墓地と思われる」とのことです。現地の方が来て下さって、日本人墓地が山のすその方にあったと証言して下さいました。朝鮮戦争の爆撃で山は大きく削られてしまったそうです。この山の何処かに母と妹が眠っている。山の姿を胸に留めたいと思いました。和尚様にお経をあげていただき、皆様に供養していただきました。母の写真と一緒に当時の家族の写真も置きました。妹の篤子の写真がなかったのは残念ですが、漸く家族が会えました。
その時突然の激しい雨に、いつも先導して下さる共和国の方、同行の方々、報道の方々もビショビショに濡れてしまいました。母と妹が私に泣いて抱きついて来てくれたと思いました。私も泣いているよ。篤ちゃん、写真がなくてごめんなさい。
元山は朝鮮戦争で大破壊され、その後貿易や観光の海の玄関都市になっているそうです。私たち兄妹が収容された元山孤児院の跡はみることは出来ませんでしたが、最期に母が収容された陸軍病院の跡地は行くことができました。兄の書いた文章を思い浮かべながら、涙が止まりませんでした。元山の港は広く、青い青い海でした。
初めてお会いした遺族の皆様と胸の想いを語り合い、悲しみを共有しました。墓参団に参加して本当に良かったです。多くの方が墓参にいけますよう、祈ります。遺骨の調査をして下さる大学の先生、ずっと先導して下さった共和国の外務省の方、朝日交流協会の方、本当にお世話になりました。北遺族連絡会のスタッフの皆様有難うございました。
第6回墓参訪朝(9月18日ー9月28日)


母が詠んだ歌
皇国のおみなの道を一すぢに
生き抜かん哉命のかぎり