私は、兄が関東軍におりまして、戦後の昭和21年3月22日、古茂山収容所で亡くなりました。ですので、今回の墓参で一番最初にお参りをさせて頂きました。
1週間の滞在中に一番感じたのは、北朝鮮、つまり人民共和国の方々の寛大さです。テレビにも出てくる考古学者の方は本当によく調査をされていたし、私たちの担当の41歳の方にも非常に歓待して頂いた。それが本当に印象に残りました。
2013年7月4日 第9回墓参訪朝報告会(東京)

参加者からの報告
私は清津で生まれ、12歳まで現地におりました。今回は67年ぶりに朝鮮に伺った形になります。第1回清津会で慰霊祭を行ってから48年、静岡県沼津の松蔭寺に慰霊碑が建ってから30年経過して、やっと北朝鮮の地を踏むことが出来ました。本当に有難うございます。
朝鮮に渡ってびっくりしたのは、とにかく、どこもかしこも畑と田んぼになってしまっているということ。咸興にある父が亡くなった場所も、家が建ってしまっていて入ることが出来ませんでした。年月が経つと、なかなか、昔埋葬した場所に入ることが出来ません。
そんな中で、清津の方や、私たちに現地の説明をして下さったチョ先生には、非常に親切にして頂きました。それだけに、今は、細かいことは捨てて、お互い行き来が出来る雰囲気を作って頂きたいと感じます。お互いに話が出来ない中で、批判しあってもしょうがありません。北京まで行って、北京から平壌に入るという労力のかかることをしないで、元山なり清津なり、そういうところに直接行けるような雰囲気をぜひ作って頂きたい。そんな風に感じました。

ご遺族 浅野三平 様
ご遺族 近藤龍雄 様
ご遺族 今村了 様

正木代表幹事をはじめ、太西事務局長、北朝鮮当局の皆様の非常に温かいご支援のもとで、67年間想い続けていた墓参が出来たことを、まずは感謝申し上げます。
私は、清津の少し下の羅南という、19師団があるところで生まれ育ち、今回は妹と2人で墓参に参りました。私は終戦当時小学校5年でしたが、正木幹事も羅南の小学校を卒業したということで、現地の詳しい地図を頂きましたところ、私の家が載っていたんです。そこで、予め太西事務局長に「もし都合が出来ればここにも寄って頂きたい」とお願いしていたところ、ちょうど昔の家のまん前で停まって頂き、20~30分間、昔のことを思い出しながら撮影させて頂くことが出来ました。ただ、今はもう道が広くなくなって、昔の面影はありませんでした。それでも、昔住んでいたところに行ったということ、お墓参りが出来たことは本当によかったです。
私は、咸興で父が、2月14日に、母があくる日の15日に発疹チフツで亡くなり、私たち兄弟三人で引き揚げてきました。咸興から元山までは無蓋車で移動しましたが、元山で降ろされ、そこからは山の中をずっと歩き続けました。昼間は見つからないよう山の中で寝て、夜歩くという形で、38度線を越えて帰ってきたわけです。
あれから67年が経ちましたが、その間ぜひ一度だけでも墓参りをしたいと、長年想い続けてまいりました。しかし、国交の無い国ですし、もう無理なのかなと思っていたところ、墓参が叶ったということをニュースで知り、今回参加をさせて頂きました。墓参が出来きて、今はホッとした気持ちです。にお世話になった皆様に、厚く御礼申し上げます。
私は、今回初めて北朝鮮という国の土を踏んでまいりました。今回の慰霊団の中で、シベリア抑留後に逆送されて、朝鮮で亡くなった人というのは、私の兄一人でした。皆さんは北朝鮮で生まれた方々で、いわば故郷ですが、私にとっては初めての地でした。
兄が亡くなったことは、興南の緑ヶ丘病院で同室だったという秋田の戦友の方の知らせで知りました。私は12歳でした。そのときは小さかったので、子の知らせを漫然と聞いておりました。
後日、役所に行って、自分の兄の死について説明をし、墓参の計画はないのかと尋ねたところ、「北朝鮮とは国交もない上、以前より関係が悪くなっているので、望みは無い」という返事でした。それから数年、中国の方々による慰霊の計画があることを知り、「ぜひ連れて行ってほしい。兄の足跡を辿ってみたい」と無理にお願いをして、加えてもらいました。そのときは、これ以上の慰霊はもう望めないと思っていたのですが、去年たまたま新聞で北遺族連絡会が出来たことを知り、太西さんにお電話をしたところ、「明日が説明会です」と言われ、すぐに参加を致しました。
今回、現地で歴史学者のチョ先生に、興南の緑ヶ丘病院についていろいろと説明をして頂きました。昔はチッソ工場の社宅と病院があり、この病院に、逆送された兵士が入院していたこと、裏の丘に埋葬されている人のほとんどが元軍人だということなどです。そばで線香を焚かせて頂き、「兄貴、迎えに来たよ。一緒に帰ろうな」と、冥福を祈ってきました。ずいぶん前になくなった母も、「お兄さんは北朝鮮の地に埋葬されているそうだから、もし行けるようなことがあれば、お参りに行って線香の一本でもあげてくれ」という遺言を残しておりましたが、やっと、母の願いを叶えることが出来たという思いです。太西様をはじめ、北朝鮮の方々の皆様に、本当に感謝しております。、ありがとうございました。
ご遺族 匿名希望
ご遺族 畔田八恵子 様

私は清津で生まれ、1年7ヶ月しかおりませんでしたので、現地のことは全く記憶にはございません。ですが、姉や兄がおり、兄がまだ元気ですので、今回一緒に行ってまいりました。これはもう、夢というか…私は69歳ですが、姿、形、声も知らない父親に会いに行けるのではないかということで、ぜひということで行ってきました。
清津の崖から下を見下ろしたとき、姉が勤めていた学校がそのままの形で残っておりました。そこから少し下りたところが自宅だったと聞き、とても嬉しく、「ふるさとに帰ってきたんだな」と感じました。平壌に下りたときも、空気というか、風というか…今までない安心感に包まれ、ホッとしたというか。そんな気持ちになりました。
私の父は咸興に埋められております。抑留され、発疹チフツの仲間を看病しているとき、12月31日に亡くなったのですが、棺おけに入れて、一番高い山、練兵場とか射撃場があったところの一番上に埋めて、墓標を立てたそうです。そのまわりに、1歳くらいの女の子のお墓があり、松の木も3本植えてあったので、(その女の子が)私と同じ年齢だから父も寂しくないだろうということで、そこに埋めたそうです。しかし、その場所は今は軍事施設になっているそうで、調査が出来ないということでした。立ち入り禁止だというので、せめて手前まで行けたら、と思っていましたがそれも叶わず、代わりに興南でお参りをさせて頂きました。
それでもやっぱり気持ちが治まらなくて、なぜ、なぜと、いろいろな人に聞きまくりました。そしたら最後に、一番高いところに行った際に、地元の人じゃないと分からないということで、地元の方を呼んで案内をしてくださり、その方が、「埋葬されているのはあちらの方角ですよ」と教えてくださったんです。ですので、そちらの方向を向いて、お参りをすることが出来ました。
また、向こうの方には、清津では「今度いらしたら、昔の家のあるところを歩けるようにしましょう」と言っていただき、咸興でも、「次にいらしたら、立ち入り禁止の手前まで調べられるようにしておきます」と約束をしていただきました。私はそれで納得し、それまでの胸のつかえも取れて、元気に帰ってきました。また2~3年のうちに必ず行って、父の…(涙)…立ち入り禁止でもいいから、その手前まで行って…。今回骨をうずめるつもりで行ったのですが、叶わなかったので、次いったときは絶対その近くまで行こう、という決心で帰ってきました。
太西さんをはじめ皆様にはご迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした。皆様に本当にお世話になり、兄弟で喜んで、納得して帰ってまいりました。
ただ、私が思ったことは、現地には遺骨がたくさん残されているので、それらをまとめて、慰霊塔などを建てて、1年に1回でも数年に1回でも、お墓参りが出来たらいいなと思うのです。一番若い私が70歳ということは、他に行きたい方々は、もっと年上だと思うのです。ですから、早くこういったことが実現すればと思います。また、ボランティアの方たちは、いつも自腹で、私たち遺族を何度も何度も北朝鮮に連れて行って下さっています。その方たちにも申し訳ないという気持ちがあります。何とか、皆様の力で、そういう方に支援が出来ればと、接に思って帰ってきました。本当にどうもありがとうございました。