「北朝鮮咸興府日本人墓地訪問の記」―久木村 久
『北朝鮮からの生還』
私は十歳のとき、昭和二〇年一月に故郷愛知県豊橋から父の応召陸軍軍医中尉としての任地
である朝鮮羅南に、母親と二歳年上の兄とお手伝いさんとの四人で赴いた。同年八月九日のソ連
軍侵攻により、直ちに避難民として故国帰還を目したが、その途次咸興府において母と兄を失い、
お手伝いさんと二人だけで翌年五月に引揚者として帰国した。
(その経緯は、拙著『北朝鮮からの生還――ある10歳の少年の引き上げ記録』
[潮書房光人社 2006年・2013年])
万感・悔悟・慟哭の行程
その時から六七年に及ぶ間、ひと時も忘れることの出来なかった母と兄の終焉の地を初めて訪れ
ることができた。平成二四年十一月二十六日から十二月一日の期間であったが、咸興府日本人墓
地を「北遺族連絡会」の支援に訪問・墓参を行った。まさに、万感胸に迫り、悔悟と慟哭の凝縮した
五日間であった。
今回の咸興府墓参の日程は以下の通りである。
11月26日 羽田―北京(全日空)
11月27日 北京―ピョンヤン(高麗航空)
11月28日 ピョンヤン―元山―咸興日本人墓地ーホテル(陸路移動)
11月29日 咸興―元山―ピョンヤン
11月30日 ピョンヤン市内見学(女性専門大病院・乳癌研究所・民俗公園・サーカス春香伝)
12月01日 ピョンヤン―北京―羽田(高麗航空・全日空)
遺族の参加は初め九人の予定であったそうである。しかし、出発日時が当初の計画より約一週間遅れたこと、そのため寒さがいっそう厳しくなると予想されたため、 私以外の遺族の方々は皆キャンセルされたとのことである。マスコミ同行、現地政府の段取りは整っているとのことで、遺族が私一名であっても頑張って行くことにした。北遺族連絡会事務局長の太西るみ子氏と私、マスコミ四社(NHK、毎日新聞とTBS、日本テレビ、テレビ朝日―各社記者・カメラマン・音声係など三~四名)計一五人のチームである。北朝鮮側からは、外務省から趙・ビョンチョル氏ほか一名、日本語通訳二名、運転手六名が参加し、総勢計二五名であった。
北京―ピョンヤン
北京―ピョンヤン間は高麗航空で、機種はツポレフ204ではないかと思われた。座席数二一〇位の双発の新鋭機で極めて快適であった。北朝鮮の民航機は時々胴体着陸をするなどという悪質な噂をする輩がいたが、そのような心配は全くない。機内の軽食もサービスも良く、快適な約二時間のフライトだった。ピョンヤンも、これまでテレビなどで報道されていたとおりの市街である。広い市街と、壮大な建築物の散在する見知らぬ街に過ぎなかった。宿泊したホテルの部屋や食事も、母と兄の鎮魂のために来た私にとっては贅沢すぎるものであり、何の感興も湧かなかった。
咸興府の日常風景
翌日の咸興府へはセダンとランドクルーザーを6台連ねての移動だった。車がピョンヤン郊外から農村地域に入ると、私の記憶にあった朝鮮が現れた。初冬の田園地帯は荒涼としており、緑は殆ど見られない。玉蜀黍、高粱、麦等の作物の刈り跡、緩やかな山肌、すべてが褐色の世界である。広い舗装道路の両端を市民たちがゆっくりと歩いている。それぞれ職場への通勤であろう。時々陸軍の制服の兵士が少人数で隊列を組んで歩いている。兵士達は殆ど武器を携帯していない。
咸興府の元収容所と墓地
車が咸興市街に近づくにしたがって、これがあの咸興かと、感無量である。三角山、屋根の低い白壁の民家。歩いている人たちは六七年前のような朝鮮服ではなく、皆洋服を着ている。私たちは民家に囲まれた細い道で車を降りる。
「この辺が日本人避難民収容所のあったところです。今は病院と一般の民家です。少し先に日本人墓地があります」
と外務省の趙氏が流暢な日本語で説明する。
六七年間の空白
私の記憶にない風景と雰囲気である。当然だ。あれから六七年という年月が経っている。その間には朝鮮戦争もあった。そして私は、やっと来ることができたのだ。土地の人の案内で緩やかな斜面を数十メートル登る。小高い丘に細長い小さな盛り土がある。土地の人はこの盛り土の下に日本人の骨が埋葬してあるという。そして彼は、父親が野菜畑を耕しているときに掘り出してしまった日本人の遺骨とおぼしきものを一ヶ所に集めて埋葬したのだと聞いたという。それ以上の詳しいことは解らなかった。私は彼の手を両手で握り締めて深く頭を下げるのみだった。
六七年ぶりの再会
持参した母と兄たちの写真と小さな造花の花束をしつらえ、線香を上げて祈った。
「お母様、達(いたる)兄さん、やっと来ました。また、必ず来ます」
とだけいうのが精一杯だった。涙がとめどなく流れた。そして、そこにいつまでも座って、母と達兄との対話をしていたかった。私としては咸興での墓参はもう少しゆっくりし、折角の訪問であったので、敗戦直後のかすかな見覚えのあるところをゆっくり探して歩きたいであったが、現地側の都合もあり、これは将来に残された。
感謝と克服すべき課題
今回の墓参旅行前にもっていた漠然とした北朝鮮のイメージは、実際に行ってみたら大きく変わった。北朝鮮側も誠意を持って応対してくれた。日朝国交正常化を少しでも早く実現し、もう少し自由に、経済的負担も少なくて実行できるようになればと思われる。しかし、第二次大戦の戦後処理問題、拉致問題、相互の安全保障問題など、未解決の事項が山積して、なかなか大変だと思われる。日本には北朝鮮墓参を希望している人は一〇〇〇人以上とも言われている。その殆どの方は七十歳台後半以上の高齢者であり、経済的にも恵まれている人たちばかりではない。その中で、私は幸運だったと思っている。そして、北遺族連絡会の関係者の方々には深く感謝している。
