訪朝記「父の遺影を胸に」――木村幸弘
兄と共に立った清津港
平成24年10月24日、清津市郊外高抹山展望台に立った。展望台より
市街がパノラマのごとく一望視され真下に清津港が浮かび上がって見
えた。内港には出浜を前にした無数の小型漁船がひしめきあって係留
され、岸壁には大型客船が列をなし港の活気を感じた。沖合いに延び
た長い埠頭の先端には赤色灯を被った燈台が穏やかな波形にその陰
影を泳がせている。一方、高抹山、双燕山、天馬山等の山並の稜線が
清津市街を包み込むように佇み晩秋のさわやかな風が小枝をそよがせ
ていた。沖合いには朝鮮海であり、日本海へと続く大海原である。
家族との記憶
清津神社跡の長い石段を登りつめた所が高抹山展望台で、その前方に御椀
を伏せたような小高い双燕山がゆったりと山影をおとしていた。その裾野に八
十八ケ所と呼ばれていた区域があり、此の地に父五二歳の身を兄の手で埋葬
したという。正確な場所は不明だったが引揚げを目の前にした昭和21年5月24
日、無念の別れとなった。悲惨な収容所での避難生活を一年余り過ごし、7月
引揚船で父親ひとりを残して眼下の港を離れたとの事、五歳の私は思い起こす
術もなく、ただただ母の胸元で嗚咽するのみであった。
父への記憶
六七年を経てようやく念願が叶い父の遺影と霊石を胸に高抹山展望台より父が眠る双燕山に向かって兄の読経が続いた。線香の燻ゆる中、私は腫れあがる目蓋の奥に父親の面影を懸命に追った。幾度となく夢に見た父との再会、心の高ぶりを抑えることができず、止めどなく涙に咽んだ。慟哭とは、このような心境なのだろう。さらに兄の記憶で我が家の所在地が、ほぼ確認できたことに予期せぬ感動と衝撃を覚えた。清津府北星町十八の二番地。両親で精肉店を営んでいた場所である。七人の兄弟姉妹の生誕の地に立ちすくんでいる現実に信じ難い動揺を受けた。父の遺影をありったけの力で握りしめ身震いしながら父秀吉の名を叫んだ。
「父チャン、幸弘だよ! 母チャンや子供達の待つ富津に帰ろう!」
人前も憚らず大粒の涙が噴出し言葉にならなかった。
友好親善の絆の道
11月11日は、父の郷里である雲仙市小浜町富津の墓前で縁者集まって六七回忌法要を行なった。大戦以来想像を絶する苦難と犠牲に対峙しながら今に至っているが、戦争と平和についての課題は未解決のままである。科学は自然を蝕み、間違った民族の尊厳は人類同士で挑発も繰り返し、危惧されてならない。このたび墓参の道が開かれましたのは、全国清津会も核として北遺族連絡会、朝日友好協会、日赤、両国政府関係機関等の御努力により実現され、深く敬意と感謝を申し上げます。今後さらに墓参や遺骨帰還等の気運が一層高まり友好親善の絆が深まりますよう祈念しています。
最後に
十日間の貴重な体験の思いは尽きることがありません。親身になってお世話下さいました正木清津会会長様、また北遺族連絡会太西事務局長はじめ事務局の方々には、格別の暖かいご自愛を賜り感謝に堪えません。北遺族連絡会訪朝第一期生のひとりとしてこれから訪朝される方々への一助になればと心しております。
父ねむる 双燕山の 秋の風
二五・二・三 記
