墓参訪朝を終えて―豊田 フミ子
やっと、やっと父と弟に会いに行く事が出来ました。
終戦当時体調の悪かった父は、勿論治療等出来ない劣悪な環境の避難生活の中、「内地に帰りたい」「内地に家族を連れて帰るまで」と、望郷の念いっぱいの中、昭和20年11月28日他界しました。43才でした。弟はその3ヶ月後に栄養失調でなくなり、私達は毛髪と爪しか持って帰れませんでした。
あれからほぼ70年です。10才だった私は79才になります。墓参がいよいよ現実化しはじめた今年の5,6月頃から、私の気持ちは複雑なものでした。墓参に対しての重み、喜び、埋葬されている方達への申し訳ない思い、そして旅への不安等々。
共和国へは北京から入ります。共和国では平壌のホテルを核にして一泊又は二泊の墓参の旅です。先ず清津へ。最初の埋葬地古茂山へ。お兄さんを亡くされた方の墓参でした。私達もおまいりさせて頂き、皆同じ思いで涙しました。翌日は清津の展望台から私が希望していた清津製鉄所の社宅が有った油坂辺りを見る予定でしたが、霧が深く、下の方は何も見えませんでした。ただその油坂も、社宅等は全部なくなり、アパートが建っているとの事。納得はしても寂しさを禁じえません。共和国の関係者の方が私達の色々な依頼を調査して下さるのですが、なにしろ70年前は私達も子供で曖昧な記憶しか有りません。その僅かな資料が基になるのですから、大変です。感謝の他有りません。
羅南の日本人墓地、平壌の竜山墓地と、丁寧な案内で無事墓参を済まされました。咸興日本人墓地、大和町の一角と夫々おまいりをされました。
咸興は二泊。宿は、興南にある物語りに出て来るようなホテルでした。興南は私の家族にとって、飢えと寒さの中で父と弟を亡くし、ここ興南の浜辺から闇船で脱出するまでの6ヵ月余り、半分死んでいる様な辛い思いのある所です。ホテルから前の砂浜を見ていると、部屋でじっとして居られず、早朝その砂浜に行き、波打ち際から市街地の方に向かって沢山の事をつぶやいて来ました。いつの日かゆっくりと時間をかけて、油坂と興南の地を歩いてみたいと思います。この夢は叶いますでしょうか?
さあ最後が三角山です。父達を埋葬した三角山です。3組の墓参でした。
共和国外務省の方の説明によると、調査の結果、この度はじめてこの三角山が特定出来たそうです。嬉しい事でした。指定の墓前に父の写真、父と弟の御位牌、線香に火をつけ、お花、お供え物等用意しておりますと、父が私のすぐ傍らに来てくれた様で、胸が痛くなるようになつかしく、「お父ちゃん、四郎ちゃん、会いに来ましたよ」と精一杯の思いで語りかけました。「南無阿弥陀仏」を称える事すら忘れそうでした。長い間訪れる事が出来なかった父の傍らに、間違いなく、私は居たのです。
そして、父と話す事が出来たからでしょうか。心に長い間張り付いていた壁がす~っと取り払われ、明るく安らかな気持ちになっていました。
よかった!!本当によかった。
こうして墓参団の重要行事は終わりました。
墓参を実現させて頂いた喜びと共に、多くの日本人が長い年月供養もされず彼の地で眠って居られる。この悲惨な事実を決して無駄にしてはいけない。国どうしの関係が平和であれば、人が死んだり、傷ついたり、又この様な悲しい事は起こらないのです。平和な世界になることを祈らずにはおられません。
そして、一番身近なことですが、墓参がもっと容易に出来る様になる事を願っております。遺族も年々年老いて来ています。
最後になりましたが、この度は北遺族連絡会の太西様、西川様、スタッフの方々、徹底してお世話して下さった共和国外務省の方から、毎日凄いスピードで見事に運転して下さったドライバーさんに至るまで、その他いろいろな形でお世話になった方々に、心よりお礼を申し上げます。