第7回 墓参訪朝報告
2013年9月30日より、ご遺族1名が墓参訪朝致しました。ご本人からのレポートと地図、写真をご紹介致します。








『遺骨収集のための北朝鮮訪問』
9月30日(月)から10月8日(火)[removed]まで妹の遺骨収集のため北朝鮮を訪問し、[removed]平安北道義州郡加山面方山洞にある方山鉱山を訪ねましたが、[removed]住居の所在が不明で特定できず、[removed]骨壺を探し当てることは断念して引き上げてきました。
平安北道を管轄する地方政府の案内者の乗る黒塗の公用車を先頭に[removed]道なき道に等しいような凸凹道を義州から40~50㎞[removed]も逆上った所の方山鉱山まで案内して下さった御好意に対し、[removed]心から感謝を申し上げる次第です。
翌朝の10月3日(木)鴨緑江鉄橋の南岸に立ち、[removed]かつて昭和19年の冬休みに訪れた鉄橋が朝鮮戦争のときに爆破さ[removed]れ、その東側に新しい鉄橋が作られ、[removed]中国丹東市との車の交通が頻繁に行われている現状をこの目で確認[removed]しました。
4日(金)はピョンヤン市内の戦勝記念館を見学し、[removed]戦争の苛烈な実態が見事に展示されていることに感心しました。[removed]午後はテコンドウ記念館の訪問のあとで、休養の時をとりました。
5日(土)は9時出発。7年間小学校([removed]当時は国民学校と名前が変わっていましたが)[removed]を卒業するまで住んでいた、[removed]平安北道煕川郡南面富成洞の安突鉱山へ向かいました。[removed]富成手前で、清川江を横切る鉄橋を見た瞬間、[removed]川の増加と氾濫で渡し舟が出なくなった時に渡ったその鉄橋である[removed]ことを直観しました。
富成駅は姿・形が変わり、[removed]安突鉱山の事務所と社宅が立ち並んでいた跡には民家がビッシリ立[removed]ち並び、昔の面影は全くなく、[removed]当時の社宅が一軒残っているという説明でしたが、[removed]70年前の記憶と結びつかない別物の感じを受け、[removed]浦島太郎の感覚を新たにしました。
富成生まれで富成育ちの81歳の老婆が待っていてくれて、[removed]握手を交わした後、昔の思い出話を尋ねましたが、「殺人・放火・[removed]横領」の大事件を知らないとの返事に落胆しました。
満浦線の煕川へ向かうトンネルの上で、[removed]妹の遺体をダビに付した所まで到達することは出来ませんでしたが[removed]、その手前で妹の位牌と写真、[removed]野の花と日本から持参したチョコレートを供え、[removed]実に70年ぶりの要法を勤め、般若心経読経を行い、[removed]同行のマスコミの方々にも線香をあげて頂きました。[removed]小石を皆さんで拾い集めて、[removed]フィルムケースに詰め日本に持ち帰り、[removed]両親の眠る我が家のお墓に入れて一緒に永眠させてやりたいと考え[removed]ております。[removed]当初の私の願いが叶えられた喜びに心から感謝の言葉を捧げます。
ところが、朝鮮民主主義人民共和国とは国交がないため、[removed]2万6千柱とも3万柱を超えるとも云われる遺骨が放置されたまま[removed]です。
2002年9月17日に小泉首相と金正日国防委員長との間で交わ[removed]された日朝平壌宣言の実現を一日も早く達成できることを心から願[removed]って、今回の訪朝報告と致します。
2013年10月15日
三重県 長尾周幸

方山
富成
煕川
平壌