2014年6月墓参訪朝 関連報道(一部)
※7月1日現在、記事へのリンクが残っているものに限り、アドレスを掲載させて頂きます。写真や動画は各リンク先でご覧下さい。
【2014年6月26日報道】
『日本人遺族9人が訪朝=合意後初、埋葬地で慰霊へ』(時事通信)
【平壌時事】終戦前後に現在の北朝鮮地域で亡くなった日本人の墓参のため、遺族9人が26日、平壌入りした。日朝両政府が5月下旬に日本人拉致問題などの再調査で合意して以降、墓参のための訪朝は初めて。7月5日まで滞在し、平壌郊外や北東部・清津、東部・咸興などにある埋葬地とされる場所で慰霊する。
訪朝した遺族は74~82歳で、朝鮮半島北部や満州で1945年の終戦を迎え、引き揚げ途中に家族を亡くした人が多い。支援団体「朝鮮北部地域に残された日本人遺骨の収容と墓参を求める遺族の連絡会(北遺族連絡会)」メンバー2人も同行。北遺族連絡会は2012年から遺族らの訪問を重ねており、今回が9回目となる。(2014/06/26-22:11)
『北朝鮮に残された遺骨 慰霊の遺族が到着』(NHK)
北朝鮮に遺骨が残されたままとなっている日本人の遺族が慰霊のため北朝鮮に到着し、来月1日、中国で開かれる日本と北朝鮮の政府間協議を前に、北朝鮮側から遺骨や拉致の問題について何らかの言及があるか注目されます。
北朝鮮のピョンヤンに到着したのは、終戦前後の混乱のなか現在の北朝鮮領で亡くなり、遺骨が残されたままとなっている日本人の遺族9人です。
遺族らは来月5日まで北朝鮮に滞在し、ピョンヤン郊外や東部のハムンにある遺骨の埋葬地を訪れて慰霊を行う予定です。
ピョンヤンの空港に到着した鹿児島県霧島市の岩元昭雄さん(82)は、ハムンで父と祖母を亡くしたということで、「日本で亡くなった母と一緒に来たかったです。父と祖母を埋葬した場所をはっきり覚えているので、そこに持ってきた墓標を立てたいです」と話していました。
遺族らの訪問には北朝鮮外務省の関係者が対応に当たっていますが、北朝鮮は来月1日に中国の北京で開かれる日本との政府間協議で、拉致被害者などの全面的な調査を行う「特別調査委員会」について説明することにしており、これを前に遺骨や拉致の問題について何らかの言及があるか注目されます。
『日本人遺族らが平壌到着 日朝協議後初めて』(テレ朝)
日朝協議で拉致問題の再調査などに合意してから初めて、終戦前後に現在の北朝鮮地域で亡くなった日本人の遺族らが、墓参りのため平壌に入りました。
父親と祖母を亡くした岩元昭雄さん:「可能な限り僕が覚えている2人の埋葬地点にどれだけ近づけるか…それがおふくろの願いだったと思います」
先月の日朝協議で、両政府は、北朝鮮に残る日本人遺骨問題の解決に向けて努力することで合意しています。日朝協議にも参加した北朝鮮側の担当者は、「今回は、日朝協議の合意を履行するための最初の墓参りだ」と強調しました。北朝鮮は、来月1日に北京で開かれる日朝協議で、拉致被害者などを巡る「特別調査委員会」の陣容を日本側に説明する見通しです。
【2014年6月27日報道】
『日本人遺族が埋葬地で慰霊=北朝鮮』(時事通信)
【古茂山(北朝鮮北東部)時事】終戦前後に現在の北朝鮮地域で亡くなった日本人の墓参のため訪朝した遺族は27日、北東部にある咸鏡北道富寧郡古茂山の埋葬地とされる場所を訪れた。憲兵だった兄が眠る地で線香を上げて慰霊した岐阜県恵那市の渡辺泰江さん(74)は「出征の前日に兄が私を抱いて寝てくれたぬくもりを今でも忘れられない。兄が亡くなった地で手を合わせることができて夢のようだ」と語った。
日朝両政府が5月下旬に日本人拉致問題の再調査や日本人遺骨問題の解決に向けた協力などで合意して以降、墓参が行われるのは初めて。(2014/06/27-17:12)
【2014年6月28日報道】
『日本人共同墓地で慰霊=遺族ら北朝鮮北東部訪問』(時事通信)
【清津(北朝鮮北東部)時事】終戦前後に現在の北朝鮮地域で亡くなった日本人の墓参のため訪朝している遺族らは28日、北東部の咸鏡北道清津市羅南にある日本人共同墓地だった場所を訪れ慰霊した。同墓地には日本の植民地時代に清津地域に居住していた日本人が埋葬されている。
墓地がある丘は現在は一面トウモロコシ畑となっているが、日本式の墓石も複数残っている。当時羅南に住んでいた広島市の石原國靖さん(78)は1943年に病死した父、庄二さんの遺体を共同墓地近くの火葬場で焼いたという。
庄二さんの遺骨は終戦時に近くの寺に納められていたが、寺の本堂は今はなくなっており、石段が当時のまま残るだけ。寺の跡地で慰霊した石原さんは「(共同墓地のある)斜面の風景を覚えている。70年来の墓参の願いがようやくかない、安心した」と語った。
「全ての日本人に関する全面的な調査」で一致した5月末の日朝合意には北朝鮮に残る日本人遺骨の問題も含まれている。遺骨問題は主に引き揚げ途中で亡くなり、埋葬された日本人が想定されているが、終戦以前からあるこうした共同墓地の取り扱いについて、北朝鮮関係者は「今後の日本側との協議次第」との見方を示した。(2014/06/28-18:48)
『日本人遺骨問題、遺族らが北朝鮮で墓参』(TBS)
終戦前後に現在の北朝鮮で亡くなった日本人の遺骨が今も残されている問題で、遺族ら9人が北朝鮮・北東部の町を訪れ、肉親の遺骨が眠る場所で手を合わせました。
今月26日から北朝鮮を訪問しているのは、第2次世界大戦の終結前後に現在の北朝鮮で亡くなった日本人の遺族ら9人です。
岐阜県から来た渡邊泰江さんの兄・眞規さんは、終戦後、シベリアに抑留されたあと、現在の北朝鮮北東部にある古茂山(コムサン)に送られ、1946年の7月、帰国を果たせないまま23歳で亡くなりました。
「安らかに眠ってください。最後に、出征の前夜に私が5歳くらいだったと思うのですが、兄が抱いて寝てくれたのを、今でもそのぬくもりが忘れられませんので、それがまあ唯一の思い出なんですけれど、やっと兄が亡くなったところに手を合わせに来られたのは嬉しかったです。皆さんにも本当に遠いところまで、ご足労願いましてありがとうございました」(渡邊泰江さん)
また、広島市の石原國靖さんは、戦前に日本人が多く住んでいた羅南(ラナム)を訪れ、父親の遺骨が安置されていた寺の跡地を訪れました。寺は戦後取り壊され、畑になっていました。
「安心しました。本当に安心しました。70年間になりました。ようやく願いが叶いましたのでね」(石原國靖さん)
遺族らは、このあと平壌郊外にある日本人の埋葬地や、日本海側にある咸鏡南道(ハムギョンナンドウ)の咸興(ハムン)で墓参を行い、7月5日に帰国する予定です。
北朝鮮には、2万人以上の日本人の遺骨が残されているとみられ、おととしから遺族らによる現地での墓参や調査が行われています。また、5月にスウェーデンのストックホルムで行われた日朝の局長級協議では、北朝鮮側がこの問題について全面的な調査を行うことで合意しています。(28日23:24)
【2014年6月29日】
『68年ぶり慰霊「安心した」=母の眠る平壌訪問-日本人遺族』(時事通信)
【平壌時事】終戦前後に現在の北朝鮮地域で亡くなった日本人の墓参訪朝団に参加した宮城県登米市の自営業、後藤忠衛さん(78)は68年ぶりにつらい思い出のある平壌を訪れた。満州からの引き揚げ途中、約1年間滞在し、ここで母を亡くした。埋葬地とされる平壌郊外の竜山墓地で29日に線香を上げた後藤さんは「この地名がずっと頭から離れなかった。安心した」と語った。
後藤さんは軍属だった父に連れられ終戦直前まで満州の新京(現中国吉林省長春)で暮らした。軍務のため父が新京を離れた後、ソ連が1945年8月9日に参戦。後藤さんは母と2人の妹と共に「着の身着のまま」新京を脱出し、引き揚げ途中の平壌で終戦を迎えた。都市ガスが配備されるなど比較的裕福だった新京の暮らしとは一変、約1年にわたる「地獄の生活」が始まった。
満州から脱出した約200人が製鉄所の労働者宿舎に集団で生活。食べ物はジャガイモやコーリャンの重湯ぐらいしかなく、靴は食料と交換した。発疹チフスや栄養失調のため、亡くなる人が相次ぎ、「隣で寝ていた母娘3人が朝起きたら死んでいた」こともあったという。
後藤さんの母も「骨と皮だけ」になり、厳冬の中で息を引き取った。「亡くなる前に周囲の大人に『子供たちを頼む』と言っていた。自分が息絶えることがどれだけ残念だったか」と振り返る。
46年8月に平壌を集団で脱出し、10歳だった後藤さんは2人の妹とはだしのまま歩いて北緯38度線を越えた。「内地に帰りたいとの一心で歩いた。道中に行き倒れた日本人を何人も見た」。何とか帰国を果たした妹はいずれも栄養失調などで間もなく相次いで亡くなったという。
「私だけ残った。妹も連れて来たかったが、仕方がない」。北朝鮮側によると、竜山墓地は2回移転し、遺骨が現在の場所に移され、約2500柱の日本人遺骨が埋葬されているという。後藤さんは「持ち帰った石を日本の母の墓に納めたい」と語った。(2014/06/29-16:46)
『北朝鮮 日本人整備の墓地跡を公開』(NHK)
北朝鮮は、かつて朝鮮半島北部で亡くなった日本人の慰霊に訪れている遺族に、当時、日本人が整備した墓地の跡地を初めて公開し、遺族たちが線香に火をともして追悼しました。
終戦前後に現在の北朝鮮領内で亡くなり、遺骨が残されたままになっている日本人の遺族9人は、28日、北朝鮮北東部のラナムを訪れました。
ラナムには当時の日本人が整備した墓地の跡地があり、今回、北朝鮮外務省の関係者の案内で初めて公開されました。
遺族たちは、僅かに残る墓石の前で線香に火をともしたあと、全員で唱歌「ふるさと」を歌って、当時、故郷を思いながら亡くなった日本人を追悼しました。
また、27日には、3000人以上の日本人の遺骨が残るとみられる北東部のコムサンでも慰霊が行われ、この場所で兄を亡くしたという岐阜県恵那市の渡辺泰江さん(75)は、日本から用意してきた墓標を立てて、静かに手を合わせていました。
渡辺さんは「兄のぬくもりを今でも覚えています。やっと兄の亡くなった所に来られたことがうれしいです」と話していました。
北朝鮮は、来月1日に北京で開かれる日本との政府間協議で、拉致被害者を含むすべての日本人について調査を行う「特別調査委員会」の構成を説明することになっていて、それを前に、新たに墓地の跡地などを遺族に案内することで、日本との関係改善に強い意欲を持っていることを示す意図もあるとみられます。
『日本人遺族 ピョンヤン郊外の埋葬地で慰霊』(NHK)
終戦前後に現在の北朝鮮領内で亡くなった日本人を慰霊するため、北朝鮮を訪れている遺族たちが、29日に首都ピョンヤン郊外の埋葬地を訪れました。
終戦前後に現在の北朝鮮領内で亡くなり、現地に遺骨が残されたままになっている日本人の遺族9人は、今月26日から来月5日までの予定で北朝鮮を訪れています。9人は29日午前、同行した北朝鮮外務省の当局者の案内でピョンヤン郊外にある日本人の埋葬地を訪れ、遺影の前に線香を供えたり、日本から持ってきた木製の墓標を立てたりして、静かに手を合わせていました。
このうち、旧満州から引き揚げる途中で亡くなった母親が埋葬されているという宮城県登米市の後藤忠衛さん(78)は「ここに来られて感無量です。母には無事に生き延びて78歳になりましたと報告しました」と話していました。遺族たちはこのあと、29日朝に北朝鮮が短距離弾道ミサイルを発射したとみられる日本海側のウォンサンも訪れて慰霊を行う予定ですが、北朝鮮外務省は今回の発射による遺族の慰霊の日程に変更はないとしています。
『日本人遺族、北朝鮮・平壌の日本人墓地を墓参』(TBS)
終戦前後に現在の北朝鮮で亡くなった日本人の遺骨が今も残されたままになっている問題で、北朝鮮を訪問した遺族の1人が、平壌郊外にある日本人墓地で手を合わせました。
日本人およそ2500人の遺骨が埋葬されている平壌郊外の「竜山墓地」を訪れたのは、宮城県登米市の後藤忠衛さんです。
後藤さん一家は戦時中、旧満州にいましたが、引き上げる途中、母親が平壌で亡くなり、遺骨がこの「竜山墓地」に眠っています。遺骨が墓地のどこに埋葬されているのか正確な場所は分かっていませんが、後藤さんは山の中腹にある盛り土の前に母親の写真を置き、手を合わせました。
「感無量です。69年間、平壌・竜山墓地というこの地名が頭から離れませんでした。安心しました。(Q.お母様に対して何か?)無事78年間生き延びましたと」(後藤忠衛さん)
今回の墓参には、後藤さんも含め日本から9人の遺族が参加していて、このあと北東部・咸興(ハムン)の日本人埋葬地などを回り、来月5日に帰国する予定です。(29日19:40)
『69年ぶりの合掌…北朝鮮墓参団が墓参り』(日テレ)
終戦前後に現在の北朝鮮で亡くなった日本人の遺骨が今も残されている問題で、北朝鮮を訪れている遺族が墓参りをした。
26日から北朝鮮を訪れている遺族9人は、北東部の2つの町で墓参りをした。羅南には当時、多くの日本人が住んでいて、この場所には多くの日本人の遺骨が残されている。遺族たちは、「ふるさと」の歌で供養をした。
羅南で生まれ育った石原國靖さん(78)は、病気で亡くなった父親の遺骨を寺に残したまま日本に引き揚げ、69年ぶりに手を合わせることができた。
石原さん「安心しました。70年間、気になっていました。ようやく願いがかないました」
北朝鮮側は、「今回の墓参団の訪朝は拉致被害者らの再調査などを約束した日朝合意を履行する上で重要だ」と述べていて、日本との関係改善に積極的な姿勢を見せている。
『日本人墓参で訪朝の遺族らに新たな日本人墓地公開』(テレ朝)
終戦前後に朝鮮半島北部で亡くなった日本人の墓参りのため北朝鮮を訪れている遺族らに対し、新たな日本人墓地が公開されました。
遺族:「だいたい位置的には覚えています」
朝日交流協会・趙炳哲(チョ・ビョンチョル)上席研究員:「あの墓地がその当時の墓地です」
東北部清津(チョンジン)市にある日本人共同墓地は、北朝鮮側が遺族の依頼を受けて調査した結果、明らかになったものです。日朝協議にも参加する北朝鮮外務省の関係者は、「先月の日朝合意を受けて、日本人の遺骨調査をさらに進めている」と話しています。
石原國靖さん(78):「(父の)遺骨を残したのだけが、思いがあった。ここに来させてもらったことが一番、感謝です」
石原さんは当時、共同墓地の近くで病死した父を火葬し、遺骨を近くの寺に納めました。今回、遺骨は見つかりませんでしたが、約70年ぶりに寺の跡地を訪れ、祈りを捧げました。
【2014年6月30日報道】
『「69年間『平壌龍山墓地』頭はなれず」遺族が墓参』(テレ朝)
終戦前後に朝鮮半島北部で亡くなった日本人の墓参りのため北朝鮮を訪れている遺族らが、平壌郊外の日本人墓地を訪れました。
母親を亡くした後藤忠衛さん:「感無量です。69年間、『平壌龍山墓地』という地名が頭から離れませんでした。安心しました」
後藤忠衛さん(78)は、戦時中、関東軍の兵士だった父親とともに満州に住んでいました。日本に引き揚げる途中、母親のトキさんが飢えなどのため平壌で亡くなったということです。後藤さんは約70年を経て、トキさんが埋葬されているとみられる墓地を訪れました。当時、平壌で亡くなった日本人の多くは栄養失調や疫病が原因で、遺体は土葬されたといわれています。埋葬地は開発などによる2度の移転を経て、現在の場所に移されたということです。
【2014年7月1日報道】
『北朝鮮・咸興で日本人の遺族5人が墓参りを果たす』(TBS)
終戦前後に現在の北朝鮮で亡くなった日本人の遺骨が今も残されたままになっている問題で1日、遺族5人が北朝鮮の咸興(ハムン)で墓参りを果たしました。
鹿児島県霧島市の岩元昭雄さん(82)一家は、現在の北朝鮮・咸興で暮らしていましたが、終戦の翌年、父親と祖母を病気で失い、その遺骨が現地に残されたままになっています。
岩元さんは1日、妹の長野孝子さんとともに咸興を訪れ、父親と祖母の遺骨が眠っている場所の近くに2人の好物だったサツマイモ入りの餅を供え、手を合わせました。
祖母が亡くなったのは冬で地面が凍っていたため、筵でくるんだ遺体に土をかけることができなかったということです。
「悲しみというか、つらい経験やら重いものも一方でありますけれども、ほっとしてうれしい気持ちですね。これでやっと、私たち家族の戦後のページが1つめくれたかなと思います」(岩元昭雄さん)
また、愛知県の井本洋子さん(81)と妹の安井恵美子さんは、戦前、日本人が多く住んでいた咸興の「大和町」と呼ばれた地区を訪れ、終戦の翌年、帰国を果たせず亡くなった母親に花を手向けました。「大和町」の中心部だった地区には、植民地時代に日本のデパートだった今も建物が残っています。
熊本市の豊田フミ子さん(78)は終戦後、父親と1歳半の弟を咸興近郊の興南(フンナム)で亡くしました。正確な埋葬場所はわかっていませんが、豊田さんは、多くの日本人が埋葬されたとみられる山に登り、盛り土の前で父親に語りかけました。
当時、食料が足りなくなり、背中におぶった弟がお腹をすかせて泣きじゃくったときのことを今でも思い出すといいます。
北朝鮮には日本人2万人以上の遺骨がいまも残されているとみられ、北朝鮮当局はおととしから遺族らによる墓参りを受け入れています。(01日21:09)
『北朝鮮東部で墓参=当局者「特別委で本格調査」-日本人遺族』(時事通信)
【咸興(北朝鮮東部)時事】終戦前後に現在の北朝鮮地域で亡くなった日本人の墓参のため訪朝した遺族らは1日、東部の咸鏡南道、咸興の埋葬地とされる場所や旧日本人居住区を訪れ、慰霊した。終戦後に父と祖母を咸興で亡くした鹿児島県霧島市の岩元昭雄さん(82)は「葬儀も火葬もせず、2人を残してきた。つらい気持ちもあるがほっとした」と語った。
植民地時代の咸興で生まれ育った岩元さんは咸興駅などを訪れ、「街はすっかり変わったが、山並みなどは懐かしい」。埋葬地とされる丘陵は北朝鮮当局の公的施設があるため、近づけず、丘陵が見える場所で線香を上げた。
咸興には多くの日本人墓地があるとみられるが、調査は進んでおらず、墓参に同行した北朝鮮外務省当局者は「(日朝合意で設置される拉致問題などを担当する)特別調査委員会が本格的な遺骨調査を行うことになる」との見通しを示した。(2014/07/01-16:33)
『訪朝の日本人遺族らが埋葬地で追悼』(NHK)
終戦前後に現在の北朝鮮領内で亡くなった日本人を慰霊するため現地を訪れている遺族たちは、1日、日本海側のハムンを訪れ、お菓子などを供えて追悼しました。
終戦前後に現在の北朝鮮領内で亡くなり現地に遺骨が残されたままになっている日本人の遺族9人は今月5日までの予定で北朝鮮を訪れており、1日、日本海側のハムンの郊外を訪れました。
ハムン郊外には日本人の埋葬地とみられる場所があり、北朝鮮外務省の関係者の案内で初めて遺族に公開されました。
ハムンで祖母と父を亡くしたという鹿児島県霧島市の岩元昭雄さん(82)は、一緒に訪れた妹と共に埋葬地が見える場所に墓標を立て、父親が亡くなる間際に食べたがっていたという、さつまいもの入った餅を供えて静かに手を合わせていました。
岩元さんは「やっとここに来られました。日本に帰ったら母の墓前に報告します。やっと私たち家族の戦後が終わります」と話していました。
北朝鮮は今回、先月新たに見つかったというハムンの別の埋葬地とみられる場所も公開しています。
北朝鮮としては、1日に中国・北京で開かれている日本との政府間協議にあわせて新たな埋葬地を案内することで、拉致被害者を含む日本人行方不明者の全面的な調査を行う「特別調査委員会」で、日本人の遺骨についても調査を進める姿勢を強調したいものとみられます。
【2014年7月2日報道】
『北朝鮮訪問の遺族ら 東北部の新たな埋葬地で慰霊(テレビ朝日)』
終戦前後に朝鮮半島北部で亡くなった日本人の墓参りで北朝鮮を訪れている遺族らに、東北部の日本人街の跡地や新たな埋葬地が公開されました。
東北部咸興(ハムン)には、日本人居住区の跡地が今も残っていて、大和町と呼ばれた地域には当時の映画館などがそのまま保存されています。今回、遺族の依頼を受けた北朝鮮側の調査で、咸興には日本人の集団埋葬地があることが新たに分かりました。
岩元昭雄さん(82):「これで私たち家族の戦後の1ページが一つめくれたかなと」
岩元さんは咸興で生まれ育ち、終戦翌年の混乱期に祖母と父親を病気で亡くしました。咸興には、複数の日本人埋葬地があるとされていますが、具体的な調査は進んでいません。先月の日朝協議に参加した北朝鮮外務省関係者は、「正式に調査委員会が立ち上がったら、日本人の遺骨問題でさらに調査を進める」としています。