二回目の訪朝で遥かな墓標を見た!!―福島 隆
「お父さん、来たよ!」「タカシか、良く来てくれた。私はここだよ!」
父の声が私の耳元で囁いた。
昨年6月の墓参では、興南のトウモロコシ畑の丘からの慰霊であった。68年振りに故郷共和国の平壌、ピョンヤン空港に降り立った時には、余りの感動で身体が震えた。夢にも見ることが出来ない、国交の無い北朝鮮へ、それも墓参の為の訪朝が出来るなど考えられないことだった。それが実現出来たのである。咸興の山に眠る父に会える。1945年12月31日、発疹チフスに罹り48才でこの世を去った父に会うことが出来る。それは自分でも抑えることのできない高ぶりであった。
6月21日が、墓参の日であった。この日は先ず興南組が慰霊し、次が咸興組の慰霊であった。興南の街には叔父が居た関係もあり、小さい頃は毎年家族で海水浴に来ていたので、ひとしお思いもあり懐かしい街であった。興南の三角山という所に3000人が埋葬されているという話は聞いていた。興南での墓参は、興徳区と呼ばれるトウモロコシ畑で行われた。墓参団の中から数名の方の慰霊が始まった。すると案内の方から、咸興の遺族もこの場所で慰霊するようにと言われた。私の父が眠る咸興の山には国の研究施設がある為、今回の墓参の為の調査が出来なかったことは、数日前に知らされていたが、ここで慰霊するとは思っていなかったので急いで準備をした。興南の街は、今は咸興直轄市になっているとのことであった。咸興での墓参を希望していた遺族は咸興の方角を向いての慰霊となった。私には、「興南のこの赤い土は、父が眠る咸興の山までずっと続いているのだから、例え墓標の前には立てなくとも何ら変わることはない。68年振りに父に会えた」という思いで慰霊した。永年の重たい肩の荷がおりたような清々しい気持ちになり、慰霊を終えた。
あの日から1年と3か月が過ぎた。今年最初の墓参団が、6月末に日本を出発した。そして、7月1日の咸興での墓参の映像をテレビのニュースで見た。山の麓にある火葬場が映し出された。私は思わず、アソコだ、あの火葬場の上の丘に父が眠っていると直感した。まさしくあの場所だ。咸興脱出直前の1946年5月2日、姉達と共に、父に別れを告げる為に墓参した。内地に帰っても必ず来るからね!と父に約束した。当時、咸興の旧陸軍連隊跡にはロシヤ軍が駐屯していた。練兵場の前を通り過ぎ、火葬場を向うに見ながら左手の山に登って父が眠る墓地に行ったのを今も覚えている。テレビのニュースを見て68年前の記憶が鮮明に蘇って来た。
8月の初め頃、北遺族連絡会から、今年二回目の訪朝を募集しますと連絡が入った。私はテレビの映像を見ていたので、火葬場の近くまでいけるのであればと思い、妹と共に応募した。9月15日、私達墓参訪朝団5名は、共和国平壌の空港に無事着陸した。9月21日、咸興墓参の当日、興南のホテルから一路咸興に向けてバスは出発した。私が目指すあの火葬場の近くにと願っていた。途中から降りだした雨の中、バスは市街地を通り抜け、盤龍山と呼ばれるなだらかな山道を登り始めた。この道はニュースやビデオで何度も見ていたあの道路だと思った。やがて前方に火葬場と思われる建物が見えて来た。それでもバスは走り続け、見晴らしの良い所に停車した。火葬場がもう目の前に見える。案内の方が「前回はずっと下の方だったのですよ」と言われた。そして更に、「あなたが言っていた旧陸軍の実弾射撃場は、あの山と、あの山の間を行ったところにありましたよ」と言われた。何ということでしょう。昨年の訪朝の時には、全く調査が出来なかったからと言われて、咸興の市街地には一歩も入ることが許されなかったのに、今回はここまで案内して頂いた。私は胸が詰まった。お父さん、ここまで来ましたよと声をあげたかった。本当にここまで来ることが出来たのだ。これで充分です。「ここで慰霊をさせて頂きたい」と言ったら、案内の方から「もう少し行きましょう。車に乗ってください」と言われた。促されるままに再び乗車した。車は走り出した。山を下りた広い道路から狭い道路へ、住宅街を走り、軍の検問所を通り抜け山道へと差し掛かったところで車は止まった。そこから雨の中、赤土の道を登り始めた。一歩、また一歩、松林に向けて登って行くと、やがて無数の墓地が見えて来た。通訳を通して、ここは朝鮮の人、日本の人達の墓地であると説明があった。戦前、戦後を通してこの辺り一帯に両国の人達が眠っているのである。一帯は松林に囲まれていて、雨の中、もうこれ以上は登れない。私は姉と二人でこの場所で父の慰霊をすることにした。心の中で68年前を回想し、整理してみた。あの火葬場の横からここまでの道のりを。この位置、この場所を。あと数メートル、お父さんと呼べば、オーイと答える所まで来ていた。遥かな墓標がすぐ目の前に見えた様な気がした。
昨年の墓参では共和国の好意に感謝しながらの墓参であったが、興南から遥か咸興を仰ぎながらの慰霊であっただけに、一抹の寂しさ、無念の思いも無い訳ではなかったが、今回の墓参への手厚い対応にはお礼の言葉も見当たらない程の感謝と感激の慰霊となった。
昨年の訪朝時は田植えが済んだばかりで、見渡す限り早苗のみどりと畑、台地ではトウモロコシの緑が目に鮮やかであったが、今回の訪朝時ではその収穫期であった。見渡す限りの黄金の波と、山の頂きまで植え付けられた収穫を待つトウモロコシ。今回も道中、幾つもの山を越えて走ったが、道の両側には何処に行ってもコスモスが咲き乱れ、コスモスの花に迎えられ、コスモスの花に見送られた。
共和国の温かいおもてなしに心から感謝し、更なる発展をお祈りしています。又、ボランティア活動を続ける北遺族連絡会の皆さんにも心からお礼申し上げます。感謝!!
2014年9月 熊本県山鹿市 福島 隆
第10回墓参訪朝(9月14日ー9月23日)




