第10回 共和国への墓参に参加して―中井 將隆
私の父は共和国・清津市高秣山麗で戦死した。
父は、昭和20年2月に3度目の徴兵で広島市宇品港から出航して、共和国清津の守備隊に配属されていた。日ソ不可侵条約を破って攻め込んできたソ軍の攻撃で部隊は壊滅したのだが、父が戦死したのが敗戦日の昭和20年8月15日であることに、私は永くこだわってきた。
母は戦地から帰還する兵士の名を告げるラジオ放送に父がいないか、まるで岸壁の母のように帰りを待っていた。しかし、昭和26年、病に罹り、奇しくも父と同じ37歳の若さでこの世を去った。父と別れた時は姉が小学校4年生、私は小学校1年生だった。
私が自分の子を持って父の無念を理解できるようになった頃から、父が戦死した高秣山に行って心からの祈りを捧げたいと思うようになった。しかし、共和国と日本は国交もなく、恐らくこの願いは私の生ある間には実現しそうにないと諦めていた。
平成25年の夏、北遺族連絡会が共和国への墓参を実現しているという京都新聞の小さい記事を見つけた。早速入会させて頂き、同会の親切な対応で、26年9月の第10回墓参に参加させて頂くことになった。渡航先が共和国ということで数々の心配事もあったが、先輩諸氏の書かれた訪朝報告は大いに私を安心させてくれた。事実、私の心配は全くの杞憂に終わった。全行程を通じて待遇はVIPに準じるものであったし、提供される食事は贅沢なものではなかったが、心のこもったものであった。
私には、今回の参加までおよそ1年の期間があった。その間、父の戦死に関する情報や清津については勿論、共和国についても可能な限り学習して臨んだ。お蔭で清津の高秣山での風景も想像通りで、初めて見た景色とは思えないものだった。
その高秣山には当時なかった展望台があって、そこからは激戦地となった景色が一望できた。向かいに双燕山(そうえんざん)、その谷間には清津の市街が見下ろせた。展望台の北側には清津神社があったはずなのだが、今はもうない。私は何故か、父はこの清津神社あたりから見える景色のどこかで戦死したに違いないと思ってきた。ソ軍は清津神社に機関銃の台座を据えて掃射し、多くの日本兵が戦死したと戦死公報に書いてあった。少なくともこの辺りに違いない。出来れば清津神社の階段で祈りを捧げたいと思ってきたものの、そこは旧ソ連軍の戦勝記念広場になっていて、いくつかの記念碑や銅像が建っていた。
第10回墓参訪朝(9月14日ー9月23日)

あまりにも無念さが込み上げ、ここで祈ることは出来ないと思った。許しを得て展望台のベンチに仮祭壇を設け般若心経を唱えた。清津神社の裏側の斜面を駆け上がり、日本から持参したお酒を斜面に捧げた。お酒は流れ落ちることもなく地面に吸い込まれた。
当時のままに清津神社への道をまたぐアーチ形の小橋があって、そこから360度の景色を眺めることが出来た。おそらく父もこの橋を何度も渡っただろうし、東方に見る日本海を眺めては残してきた私たち家族のことを想ったことだろう。万感が胸に迫った。
翌日は父が7月までいた兵舎(当時の清津中学校)に立ち寄ってくれた。今は小学校になっていて、サッカーを興じる子供たちの声を聞きながら校庭を歩いた。正面奥に4階建ての白い建物があって兵舎として使われていたそうで、ほとんどその様子は変っていないと説明を受けた。ここから父は何通もの手紙や葉書を送ってきていた。
私の場合は父が高秣山付近で戦死したという戦死公報の記述だけが頼りで、特定する確たる場所はない。そんなことから希望地は複数となり申し訳なく思っていたが、共和国側は清津中学校や高秣山東側まで連れて行ってくれるなど、困難な状況の中での心配りと努力には、感謝の言葉もない。
今回の訪朝は5名の遺族が参加したが、私以外は朝鮮で生まれ育った方々である。その方々の目的地である咸興では、急に雨が降りだして、濡れた草叢に伏せて祈られる姿は涙なしに見られなかった。父の戦死地を訪ねるだけの私とは違って、方々にとっては故郷であり、家族離散と死別を伴った悲劇の逃避行を経験されておられるからだ。
しかし、その一方で、父と同じ日に高秣山麗で325名の兵士が斃(たお)れたというのに、私が初めて訪れた遺族であることも悲しいことだった。赤紙一枚で召集して戦死させた兵士をそのままに、戦後70年も無為に過ごしてきた国家にその責任を求めねばならない。その不幸を補うかのように共和国地域の墓参の先鞭をつけられたのが、一民間団体の北遺族連絡会である。すでに10回を重ねられ、同会事務局長の太西るみ子氏の強い意志と並々ならぬ努力のお蔭で成就したものである。しかも、その活動は同会のスタッフの皆さまのボランティアで行われているのである。いまだに信じられない気持ちながら、心よりの感謝を申し上げる次第である。
昨年5月のストックホルムで開かれた日朝政府間交渉以後、拉致問題と絡めて微妙な事態になったことから、次回からは政府主導で行うということになった。「本来は政府がするべき事業であるから、今後、同会は関与しない」との太西事務局長の談話もあって、一時は取りやめになる可能性が高まった。せっかく参加を決めたのにという戸惑いと、日本政府への思いもあって、私は遺族の一人として今後の対応について外務省に何度も電話をした。「訪朝の予定も決まっているこの際、政府として正式に北遺族連絡会に委嘱するよう」求めた。しかし、体の良い官僚的な応対で受け流されただけで、いかに同会が至難な事業をされているかを知ることで終わってしまった。その後、同会の数々の努力により予定より数か月延期となったものの、9月に実行されたのである。
今年の墓参訪朝がどのようになるのか私は知らない。いずれにしても同会の実績は高く評価されるべきであり、今後も遺族のために大きな力を発揮し続けて頂けることを期待している。また同時に、我われ遺族も単に有難く思うだけではなく、あらゆる場面で出来る限りの協力をしなければならないと思う。
もう一つ付け加えねばならないことは、全行程を共にした30名余の報道陣の皆さんのことである。多くのカメラに囲まれインタビューを受けるなど、私にとっては今までに経験したことのないことだった。若い彼らの懸命な取材には大いに感銘を受けた。毎日、TVで見る報道がこのように取材され記事になって行くのかを目の当たりにした。報道は大変重要な仕事である。いずれ若い彼らが社内での地位が上がったとしても、常に体制を批判する側に立って報道するジャーナリスト精神を忘れずに大成してほしいものだ。
北遺族連絡会の皆さまのお蔭で、父の戦死した高秣山で祈りを捧げるという積年の思いは叶えられた。父が遠くからこのことを喜んでくれていると考えるならそれは嬉しいが、それより喜びは、私が高秣山に行けたことに尽きる。祈りという心の安らぎは、常に自己満足なのである。
先の大戦では日本人だけで310万人が亡くなったと言われている。この多くの死はいったい何であったのだろう。戦後70年はあまりにも長い。私たち遺族でさえ間もなくこの世を去ろうとしている。大戦のあったことさえ知らない世代がこの国の住人となる日も近い。
日本は戦後70年、曲がりなりにも平和憲法を護ってきた。私は今から10年前頃から憲法9条を守る会に所属してささやかな活動をしてきたが、同時に、憲法の現実との乖離やその理念にも少なからず疑問を持ちながらの10年でもあった。しかし、昨今の混沌とした世界情勢と各国の苦悩する姿を見るにつけ、やはり日本国憲法の持つ理念は正しいと再認識せざるを得なくなった。
戦争は絶対してはならない。武力で平和は構築されない。恨みの連鎖が続くだけである。現在の混沌とした世界情勢はその証左である。
最大の防衛は敵を作らないことである。戦後70年間、日本は一発の銃弾も撃たず、一人の外国人を殺傷していない。これは平和日本の勲章でありブランドである。日本以外の多くの国はその手を血で汚してしまっている。彼らには平和を唱える資格はない。
その意味で孤独な日本の役割は彼らとは別にあるはずだ。彼らとは異なった立場から人権や経済的格差の是正に尽くすべきである。そして、不幸な時代に生きた父たちの死を無駄にしないためにも、機会あるごとに私たちが知っていることを次の世代に伝えることが大切なのだ。
父たちの死を英霊と崇(あが)め、そのお蔭で今の日本があるなどと、心無く靖国神社に参拝するのが慰霊ではない。本当の慰霊は再び戦争をしないために努力し、平和日本の思想を世界に広めることである。